1.はじめに
昨年のことですが、一度に3人の科学者がノーベル科学賞を受賞されたことがありました。
そのうちの一人下村脩先生に、小学生の児童が質問をしている場面がテレビに映し出されました。
「どうしたら、ノーベル賞をもらえるようになりますか?」という児童の質問に対して、
下村先生はにこにこしながら即座にこう答えられました。
「テレビなんか見るよりは、自然を見て、自然から学びなさい。」
私は絵を描く人間ですが、社会的なイデオロギーを表現するとか抽象絵画を描くこととは縁遠く、
実際のものを見て描く絵しか描けない私は、この言葉に共感を覚えよろこびを感じました。
科学する人はおおかたの人が子どもの頃、野原をかけまわり、
虫や草花とたわむれたということを耳にします。
おそらくそんな中で自然の不思議さを体験するうちにどうしてとか、
どうやってといった物事に興味や疑問を感じ、科学的に解明することに喜びを
感じるようになるのかなと思います。
自然豊かな田舎育ちの私ですが、わが身辺の自然を見つめながら、
自然の不思議さに感動しながら自然を描き、自分を高めていきたく思っています。
2.人間は自然は美しいと言い、自然はそんな人間の思いとは裏腹に厳しい
人間は、春には美しく咲く桜を愛で、秋には紅葉狩りを楽しみます。しかし年によって
はあまりきれいに咲かない時や、美しい紅葉にならないことがあります。そんな時には人
間は「今年の桜はだめだとか、今年の紅葉はきれいでない。」とか言います。桜や紅葉する
木々にとってはいい迷惑で、そんなときに限って虫や病気と闘って悲鳴をあげているのだ
と思います。人間は美しく咲いた花や美しい声で鳴く鳥は愛でますが、
その裏にはいかに過酷な自然の営みがあるかということを知ろうとしません。
下村先生が言われる「自然をよく見る」ということは、美しい紅葉の付け根には、
必ず来年の新芽の赤ちゃんが育っていることに気づきなさい、
そこまで見なさいということではないでしょうか。
人間がきれいきれいといっている一枚の葉っぱは来年の新芽を懸命に育てているし、
まもなく役目を終えて散っていくのだということを知れば、
また違った美しさがあることに気づくでしょう。
私はそんなことを考えながらスケッチをすることにしています。
3.自然とのつきあいかた
(1)アトリエの宝物たち
私の手狭なアトリエには、日頃から拾い集めている虫の死骸や蝉ガラ、
ヒヨドリのミイラや獣らしい頭の骨のかけら、山から拾ってきた枯れた木の実など、
おおよそ普通の人なら見向きもしないものがいっぱいあります。
でもそれらはわたしにとってはかけがえのない宝物なのです。
なかでも蝉ガラや蝉の死骸が特に多く、折りに触れてはスケッチの対象となります。
蝉はその年の夏、樹木の上で生まれた卵が幼虫になって、
土深くもぐってから7,8年後の夏に再び地上に現れ、
一晩のうちに羽化し、わずか十日余りの命を謳歌することはよく耳にすることです。
朝カラを残して飛び去ってしきりに鳴く蝉も、十日余りもすれば卵を木に産み付けて、
やがて死んでいきます。そんなことを考えながら、
目についた蝉ガラや成虫の死骸が風に吹かれて転がっているのをみると、
愛おしくなってついアトリエにつれて帰るのです。
(2)家の周りは自然のドラマがいっぱい
夏の暑い盛り、何気なく地面に目をやると黒い毛虫のようなものが這っていきます。
よく見ると数匹の蟻がその毛虫に噛み付いては振り落とされ、
また噛み付いては振り落とされています。
やがて蟻の数が増えて噛み付くので、心なしか毛虫は弱っているように見えますが、
まだ力を振り絞ってはありの攻撃から逃れようとします。
数時間たってまた庭を見ると小さな砂の盛り上がりができています。
そっとその砂を広げてみると、そこには黒い毛虫の死骸がありました。
あれからしばらくの格闘が続き、力尽きた毛虫の死骸の上に、
蟻達が一粒一粒と砂を運んできてはかけていき、こんもりと盛り上がったのでしょう。
ほうっておくと暑い日差しに獲物が干からびてしまうので、
みんなで砂をかけたのかなと私にはそれくらいの推測しか出来ません。これは筋書きのないドラマです
(3)芦田川に魅せられて
私は現在竹原から自家用車で平成大学に通っています。途中芦田川の上流の土手を通るのですが、
1箇所ほとんど車の通らない砂利道の側道あって、そこで車を止め、
5分ほど休憩するのが決まりとなっています。
広く視界がひらけて、いろんな鳥の声が聞こえてくるのを楽しむのです。
多く見られるのが川鵜、鷺類、鴨ですが、冬から初夏にかけては雉の姿をよくみかけますし、
姿は見えないけど鶯は真夏でも鳴いています。
6月中旬まで真っ赤な頬をした美しい雉を見るのが楽しみでしたが、
以後ぱったり姿を見なくなり寂しい思いをしています。
春夏秋冬様々に風情を変える芦田川の自然は、私にとって大変魅力あると同時に
大切な場所となっています。
4.ペンと三原色によるスケッチのすすめ
私が絵を描くのは、ただ対象の形と色をを描き写すのではなく、
その対象が今なぜそこに存在するのか、なぜ今の形や色や空気があるのかを確かめたいからです。
多くの人が日記を書いたり詩や俳句をつくるのと同じです。
いわば私のスケッチブックは「身辺雑記帳」であります。
だからあまり難しく考えず、上手に描こうと思わないようにしています。
題材は拾ってきた虫の死骸や石ころ、枯れた木の実といったように生命を終えたモノに
興味をいだきます。死骸(死)を描くことによって対象の生命の誕生と生命の謳歌の素晴らしさが
深く理解できるからです。そんなものを上手に正確に描いたって、誰もほめてはくれません。
だから、難しく考えず、「なぜ、いつお前はこういう姿になったのか、
ワシに拾われたのもお前の運命か?」などと独り言をつぶやきながら描きます。
絵を描くということは楽しくないといけません。上手に正確にかこうとして、
楽しくないことが往々にしてあります。そこで、ペンと三原色によるスケッチを提案します。
ペンで描くと失敗しても消せません。そこがいいのです。
鉛筆だとどうしても消しゴムで消して書き直したくなります。
失敗した線はそのままにして、描き進んだらいいのです。
小さくなりすぎたら大きく、大きくなりすぎたら小さくして小さいほうに色をつければいいです。
色は三原色(赤、青(2種類)、黄(2種類))と白の6色です。
6色あれば無限に色が作れますので、24色セットだの40何色セットだのと高いものは
買う必要はないのです。パレットは紙皿、水入れは紙コップで間に合います。
要は気楽に、時間をかけずに、バックがどうだの、立体感がどうだのとは考えずに楽しむことです。
ペン・ピグメントライナー(細・中・太)
色・・赤(カーマイン)
青(コバルトブルー、プルシャンブルー)
黄(レモンイエロー、クロームイエロー)
白(シルバーホワイト)
摘んできた土筆を画用紙の上に置き、いきなりペンで描きます。失敗しても気にしない。
三原色でうっすらと着色。(大きさ:10p×20p)
5.自然は人間にとってもっとも偉大な教育者
芦田川の河川敷の草むらを歩いていると、突然ばたばたと大きな羽音をたてて雉が飛び立ちます。
危険だと思うものが近づくと見つからないように草むらに潜む習性があるようです。
じっと通り過ぎるのを息をひそめて待っている姿を想像すると愉快です。
川面を眺めているとなにやら泳いで来ます。ヌートリアです。澄ました顔で目の前を通り過ぎます。
その横を青大将が身をくねらせながら泳いでいます。
青鷺がグライダーのように水面すれすれを格好良く滑空します。
先日宇宙から帰還した若田さんの、「エンデバーのハッチを開けたとたん、
草の匂いがぷーんとしてきて地球に帰ったんだなと思った」という言葉がすばらしい感性だと思いました。
ある有名な登山家の「山に登るのではなくて、登らせていただいているのです。
われわれは邪魔をしているわけですから。」という言葉を聞いて、
こんなにも自然に謙虚になれるものかと思いました。
宇宙開発にしても、地球開発にしても世の中の進歩には必要かもしれませんが、
人間を含めて、小さな虫から草花、野生の動植物にいたるまですべてのものが
共存している地球であり宇宙だということを忘れたくないし謙虚な気持ちも忘れたくないと思います。
美しい自然も厳しい自然も、人間にとってはどんな書物を読むよりも偉大な教育の場であると思います。
芦田川の自然の中で、絵を描くことを通してより深く自分を見つめ続けたいと思います。
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